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フロッタージュ FROTTAGEReflections on My Mind
6/22/2008 祠(ほこら)
11/18/2007 西安、兵馬俑博物館 中国、西安にある兵馬俑博物館をみてきた。今月4日から10日まで、中国、西安東北にある富平にて、国際会議(国際陶芸誌編集者会議)が開かれた。わたしは、その招待発言者として参加。会議における参加者プログラムのひとつとして、兵馬俑博物館の見学は設定されたもの。一度は観ておきたかった兵馬俑。とにかくその規模は、中国そのものである。古代からの、現実主義の中華人民の世界観が、兵馬俑を造らしめたというのだろう。現世の再現、死後もそのまま生命の持続を願う観念。これは、けっして輪廻転生に沿った ものではなく、不老不死を願う、現世利益そのもの。死後を詮索しない、現実そのものを享楽するエネルギィーが、なさしめたものか。
以下の作品は、兵馬俑に影響されてからのものではないが、というのも、この作品は、時期としては、それ以前に制作したものということである。無数の集団、たとえば、小さな昆虫を考えるとして、小さな虫そのものを、たった一匹、目にした場合と、その無数の塊を目にした場合、どちらが、驚異であるか言うまでもないだろう。集団の恐ろしさは、それが、どの方向に行くか理解できない故に、不気味なのである。表現に向かうとき、それを大きなひとつの塊に集約させるか、小さな、時に可憐なるそのものの集約として表現させるかは、作家そのものの手段であろうが、つくずく、数の恐ろしさを感じざるを得ない、、、 http://pictures.aol.com/ap/viewHoo.do?type=kenBurns&size=LS&logoUrl=http%3A%2F%2Fpictures.aol.com&aimName=makotohatori&aolAlbumId=1uXYxRKKm4Tio8vrBjoAUoAw1f1qg585tRBO1HsC9geJJdNX5w59hg%3D%3D&noLogo=true&bgcolor=FFFFFF 9/17/2007 映画 「逢びき」6/22/2007 方丈、、窯と陶芸 東洋、、もちろん日本もそうだが、、古来から、中華思想の影響を受けずにはいられなかった東アジアの精神性のなかには、玉 (ぎょく) に対する崇拝ともよべる高貴なる憧れが存在する、、、小さきもの、愛らしいものにこそ、、そこに美、、真実の存在を認め、、反転、、広大なる宇宙と折り重ねる、、壷中居 (こちゅうのきょ)、一壷天 (いっこてん)、、あるいは、求めた美は、纏足 (てんそく) にまでいき着くのか、、、それは、東洋的合理的精神に連動する、、工芸美術における、、限りなく狭く深い、、技法追求のもの造り、、、日本における、根付をはじめとする工芸のなかに、、茶道における茶室のしつらえのなかに、、坪庭、盆栽、提灯、、、 どれもが、極小の世界、、、掌(たなごころ)、、あい対する者の手中に納まる世界、あるいは、それはともすると装飾過多へとも、、、なればこそ、全てを嘗めまわすことの可能な世界、、宇宙にわが身を置く、内包可能となる観念、、精神世界、、、
1/21/2007 ドガ ダンス デッサン ポール・ヴァレリー 「ドガ ダンス デッサン」 において、わたしには、、ドガ、その素描とは、建築家における、設計図、構造計算に比較対象されるように思える、、、
素描という、作品、その前段階的行為は、創造的構想の膨らみという、いうなれば制作者自身の自由なる感性の世界を飛来させえる行為であるが、、ドガのそれは、次なるタブローに向かう、、完成されし制作行為を前提にした、極めて緻密なものとする行為が、、そこに感じとることができる、、、
ヴァレリーは、ドガの制作概念には、彼自身にとっての作品の完成は、めざしてはいない、とされるが、、ドガの癇癪癖、、他人に対する、あしざまに疎んずるその性向は、単に芸術家のもつ特異な気質のみとは言えないのではないだろうか、、ドガという作家自身の作品の完成を脳裏に持ちつづける、彼自身の苛立ちの表れとして、、そこには葛藤がある筈なのだ、、、
素材としても、踊り子、、に接近した生身のドガの創作動機を突き詰めると、、存外、、その特異、、な、性癖がらみに、隠れた一面が、あぶりだされる感じがする、、、
ジャコメッテイの素描は、対極に位置する、、なぜら、 ジャコメッテイのそれは、素描そのものが、すでに彼の芸術的完成への同質化、意識化された造形空間を構築されているからである、、素描そのものが、すでに「作品」である、、、
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