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Since Jul., 4th 2006


Makoto HATORI

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陶芸家
http://www2r.biglobe.ne.jp/~makoto-h/
http://www.myspace.com/makotohatori

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Ancient Style, Modern Sensibility
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フロッタージュ FROTTAGE

Reflections on My Mind
6/22/2008

祠(ほこら)

nakoso1    

 先日、福島の勿来の関にを訪れた。ご覧のような朽ちかけた祠が、信仰の対象ぶつ以上の存在感を晒していた。いかにも、歴史を感じさせるたたずまいだが、また、古さを感じさせれば、歴史的なるものでもない。歴史は、そこに人々の関わり合いがあってこそ、後世、見る者をして感慨を及ばしめる存在となり、歴史的なるものとなるのだから。伝統も然り、そこには、人間の息使いが常に存在するものなのである。すなわち、それらにまつわる、神性なり、権威なりは、時代の人間が作り上げたもの、、もの、なのである。あたかも、古来より、既にあるかのごとく思わしめるものは、そんな歴史性のトリックにハマる結果なのだ。

 それ以上に、実は、私は、この祠に美を感じたのです、、、
 

 

11/18/2007

西安、兵馬俑博物館

  
 
           
 
 中国、西安にある兵馬俑博物館をみてきた。今月4日から10日まで、中国、西安東北にある富平にて、国際会議(国際陶芸誌編集者会議)が開かれた。わたしは、その招待発言者として参加。会議における参加者プログラムのひとつとして、兵馬俑博物館の見学は設定されたもの。一度は観ておきたかった兵馬俑。とにかくその規模は、中国そのものである。古代からの、現実主義の中華人民の世界観が、兵馬俑を造らしめたというのだろう。現世の再現、死後もそのまま生命の持続を願う観念。これは、けっして輪廻転生に沿った ものではなく、不老不死を願う、現世利益そのもの。死後を詮索しない、現実そのものを享楽するエネルギィーが、なさしめたものか。
 
以下の作品は、兵馬俑に影響されてからのものではないが、というのも、この作品は、時期としては、それ以前に制作したものということである。無数の集団、たとえば、小さな昆虫を考えるとして、小さな虫そのものを、たった一匹、目にした場合と、その無数の塊を目にした場合、どちらが、驚異であるか言うまでもないだろう。集団の恐ろしさは、それが、どの方向に行くか理解できない故に、不気味なのである。表現に向かうとき、それを大きなひとつの塊に集約させるか、小さな、時に可憐なるそのものの集約として表現させるかは、作家そのものの手段であろうが、つくずく、数の恐ろしさを感じざるを得ない、、、
http://pictures.aol.com/ap/viewHoo.do?type=kenBurns&size=LS&logoUrl=http%3A%2F%2Fpictures.aol.com&aimName=makotohatori&aolAlbumId=1uXYxRKKm4Tio8vrBjoAUoAw1f1qg585tRBO1HsC9geJJdNX5w59hg%3D%3D&noLogo=true&bgcolor=FFFFFF

9/17/2007

映画 「逢びき」

b14
 1945年イギリス映画 「逢びき」 を観る、、Brief Encounter 、、、しめ付けられるほど、、切ない物語、、わが身と重ね、、と、いったら大層な、と笑われるかもしれない、、、ローラ、、シリア・ジョンソン、、、 アレック、、トレバァー・ハワード、、、せめて、劇中であるなら、、突きすすんで欲しかった、、、といったら人生を解せない、といわれてしまうだろうか、、、でも、戻らぬ旅をする、、そんな美しさもあるのでしょうが、、、ささやかなもののなかにこそ、美しさがあると、いうのでしょう、、、
 切なくも、どうしょうもない、、 あの日あの時、、、それぞれの人が共有する、、、
6/22/2007

方丈、、窯と陶芸

 東洋、、もちろん日本もそうだが、、古来から、中華思想の影響を受けずにはいられなかった東アジアの精神性のなかには、玉 (ぎょく) に対する崇拝ともよべる高貴なる憧れが存在する、、、小さきもの、愛らしいものにこそ、、そこに美、、真実の存在を認め、、反転、、広大なる宇宙と折り重ねる、、壷中居 (こちゅうのきょ)、一壷天 (いっこてん)、、あるいは、求めた美は、纏足 (てんそく) にまでいき着くのか、、、それは、東洋的合理的精神に連動する、、工芸美術における、、限りなく狭く深い、、技法追求のもの造り、、、日本における、根付をはじめとする工芸のなかに、、茶道における茶室のしつらえのなかに、、坪庭、盆栽、提灯、、、 どれもが、極小の世界、、、掌(たなごころ)、、あい対する者の手中に納まる世界、あるいは、それはともすると装飾過多へとも、、、なればこそ、全てを嘗めまわすことの可能な世界、、宇宙にわが身を置く、内包可能となる観念、、精神世界、、、

 こと、窯に関しては、、小さいものは日本の伝統的やきものには、不向きである、、、焼きもの、陶芸、、なによりもその造形の質的性格を決定づけるもの、、まず、焼成、、窯とは、単なる表現手段における道具ではないこと、、日本の焼きものの特質である、、、一球入魂、、スポーツさえもが、精神世界、道 (みち) の世界に取り込まれてしまう現実、、、焼きものと、、焼成装置である窯は、意味同体なのだ、、、わたしは、焼きものをしてます、、では、あなたの窯は、、となる、、、至極当然のことのようであるが、、ほんとうに当然なのだろうか、、、そして窯は、作り手そのものでさえもある日本の伝統的焼きもの観、、、それは、道具の擬人化、、作り手はそこに自己の精神性を重ね合わせる、、、

 三位一体、、造り (いわば、作り手、、人である) - 粘土 (素材である) - 窯 (重要なる焼成、、この三角形の関係における頂点に位置する)、、この関連こそが、日本の伝統的焼きものの世界観を端的に表す構図といえる、、、焼きものをする、、イコール、窯を所有する、、となる、、、焼成こそが、最も重要な工程である、、焼成は、端的に、、上がり、、というではないか、、、 その上がりこそが、、焼きものをして、、良し悪しの判断となる、、、

 この、焼成装置としての道具は、焼きものをする者にとっての象徴であり、エンブレムでもある、、、シンボル とは、見栄え、大きさ、、大きければ大きいほどよいとなる、、、単に、それが、大きいだけで、商業的にも、対社会的、さらにもっと、制作作活動をする作家に対する印象すら、能動的反転をする、、質屋と蔵の関係になぞることができようか、、、 大きい、、富んでいる、信用がある、、、

 窯は、日本における焼きものの世界で、そのような位置付けをされていることは、また、伝統的焼きもの観によるところでもある、、、この場合、、大は小を兼ねるに由来する、、、大窯時代、、当然、、数が多ければ多いほど、焼成具合は、千差万別、、良質の品もとれることとなる、、、小さい窯では、不可能な偶然性に満ちた作品 (窯変) がとれる、、茶道的美意識の介在、、、
 
 しかし、ヨーロッパ、アメリカの陶芸家と窯の関係は、随分と異なってくる、、、先刻述べた、道具としての窯、、となる、、、焼成装置としてのそれは、、精神性をそこに求めるとか、、感情移入をすることはない、、、厳密なるもの、それが、個人的芸術性を追求するならばなおさら、、そこに存在させる理由なない、、なぜならまさに感性の赴くまま、、自らの表現行為の道具とする、、と言ったほうがよいだろう、、、日本の 「楽 (らく) 」 が、彼の地で、RAKU、、とされ、、帰化したのも大いに納得のされるところである、、、作り手にとっての個人的感性、思想性が一義であればこそ、そこに、相対する存在者、、窯、、装置は、すでに作り手に内包されたものとなるのだから、、、

 西欧における、技法を支える装置、、としての窯は、作り手との思想に関連し、、創造性をどうとらえるのかによって、かくもその存在の有様は違ってくる、、、数度のヨーロッパ訪問で感じたこと、、ヨーロッパにおいて、作家の工房を訪れて、わたしが、みたものとは、小さな窯が、、それは、日本において愛好家が使用する程度の大きさであること、、なのだ、、、では、大きな作品は、どうするのか、、数多のシンポジウム、、レジデンスに参加、、応募することで、施設の大きな窯を使用することとなる、、、現代の自己完結型の日本とは異なり、ヨーロッパやアメリカでは、窯は装置であるからにして、、集団で造り、使用する考えが普通である、、、かっての日本の大窯時代、室町から江戸にかけて、、を思い出してもらいたい、、、まさに、ヨーロッパ、アメリカにこそ、かっての日本の室町時代の備前における共同窯、、大窯(本来なるとの意味)の精神がいきているといえる、、、

 かって、イギリス、、ロンドンで、、かなり著名な陶芸家を訪ねたおりの、、住居、フラット( flat ) 、その裏庭に位置する、小さな窯と作業場、、さしずめ、、日本では、愛好家ていどのそれ、、、彼は、大きな作品を制作していないのか、、といったら、そうではない、、、上述の様に、教育機関におけるアーティスト・レジデンスなどの参加を機に、かなり大きな作品をつくる、、、むしろ、、そうした行動が、陶芸という芸術ジャンルの性格に適した、、アプライド・アートとしての、、技法に関わる共有性に対するかれら全体の認識でもある、、、技法が創造性を拘束することは、本末転倒といえるのだろう、、、

つづく

1/21/2007

ドガ ダンス デッサン

b19 
 ポール・ヴァレリー 「ドガ ダンス デッサン」 において、わたしには、、ドガ、その素描とは、建築家における、設計図、構造計算に比較対象されるように思える、、、
 
 素描という、作品、その前段階的行為は、創造的構想の膨らみという、いうなれば制作者自身の自由なる感性の世界を飛来させえる行為であるが、、ドガのそれは、次なるタブローに向かう、、完成されし制作行為を前提にした、極めて緻密なものとする行為が、、そこに感じとることができる、、、
 
 ヴァレリーは、ドガの制作概念には、彼自身にとっての作品の完成は、めざしてはいない、とされるが、、ドガの癇癪癖、、他人に対する、あしざまに疎んずるその性向は、単に芸術家のもつ特異な気質のみとは言えないのではないだろうか、、ドガという作家自身の作品の完成を脳裏に持ちつづける、彼自身の苛立ちの表れとして、、そこには葛藤がある筈なのだ、、、
 
 素材としても、踊り子、、に接近した生身のドガの創作動機を突き詰めると、、存外、、その特異、、な、性癖がらみに、隠れた一面が、あぶりだされる感じがする、、、
 
 ジャコメッテイの素描は、対極に位置する、、なぜら、 ジャコメッテイのそれは、素描そのものが、すでに彼の芸術的完成への同質化、意識化された造形空間を構築されているからである、、素描そのものが、すでに「作品」である、、、
 
Photo 1 of 31

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